映画「怒り」は純粋な女性のための映画だ~あなたの中で、信じることと疑うことは共存しうるか?~感想/考察

 「泣いてる。どういうこと?」

 

「怒り」を観ていたとき隣の人が泣いていた。

まったく理解できなかった。エンドロールが終わり、席を立つ。

 

何人か泣いている。その一方で、だるそうにしている人もいる。

そう僕はだるそうにしている側の人間だった。

なんだかよくわからないモヤモヤが、観終わった後のしんどさが強く残る映画に感じた。

 

なんで泣いているんだろう?逆に言えばなんで俺は泣けないんだろう?

そんなことを紐解いていくと、この映画の良さ・自己探求につながる映画だった。自分の人生経験、そこからくる人を信じるスタンスについて考えさせられる映画だ。

 ※この記事は犯人等のネタバレはありません。映画から感じた思考について書いています。

 

 www.ikari-movie.com

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あらすじ

ciaterさんより引用

ある夫婦が惨殺された現場に「怒」の血文字を残して未解決となった事件から1年後。犯人は「山神一也」という人物だと判明するものの、整形手術をして逃亡を続けています。

疑わしいとされるのは3人の男。千葉県・房総の田代哲也、沖縄の離島にいる田中信吾、東京都内の大西直人。

それぞれの地でそれぞれの男に出会う人々の葛藤を描く群青劇です。

 

ciatr.jp

一つの事件が描かれ、過去が分からない怪しい男3人がそれぞれの地でストーリーが進みます。

犯人は名前はわかっているのですが、顔を整形して変えているため、3人の顔が似ている中で犯人が誰か分からないまま進んでいきます。

信じることと疑うことは共存するのか?

この映画に感情移入でき、ラストに泣けるかはこのの問いにどう応えるかでわかる。

 

「貴方の中で、信じることと疑うことは共存しますか?」

 

この問いに僕はNoと答える。

 

僕の中で信じることと疑うことはどちらか一方しか存在しない。いや、疑うという概念が存在しないのかもしれない。多分これはかなりオスよりの考え方だ。

 

昔、男は狩に行き、女は村に残り子供を育てた。男は獲物を狩るために、目標達成に向けて最善を尽くす。その一方、女は村に残り子供を育てた。

 

男と女の違いより

家族が無事で生きていけるよう、子供たちが病気でないか、お腹をすかしてないか、怒ったり、落ち込んでないか、他人のわずかな気持ちや態度の変化に気づく必要がある。

ちょっとした部分やかすかな変化を女は見逃さない。女の周辺視野が広い目とかすかな音の違いを敏感に察知する能力は「女の勘」を発達させた。

 

話を聞かない男、地図が読めない女―男脳・女脳が「謎」を解く

話を聞かない男、地図が読めない女―男脳・女脳が「謎」を解く

 

 

女性は男に比べて、コミュニケーションの中で受け取る情報量が圧倒的に多いし、多くの示唆を必要とする。さらには、言動と思惑が一致しないことが多々ある。

 

その一方、男はマンモスを前にして、言動と思惑が一致しないなんてことがあってはならない。人が死ぬ。簡潔に目標達成のために必要なコミュニケーションをとっていかなくてはならない。

 

もっと想像しやすい例をあげよう。中学生や高校生のとき、こんな話をよく聞かなかっただろうか?

  • 「A子とB子は仲が良さそうにみえるけど、実はA子は裏でB子の悪口を言っている」

 

この現象は男社会において一切ない。その一方、女社会では多発している。

このような思考の違いから、女は信じることと疑うことを共存させることに慣れている。慣れているというより、そういった思考でないと女社会ではやっていけない構造になっている。これはいい悪いの話ではなく、構造上起きる思考の違いだ。

信じて裏切られたときにあなたはどう反応するのか?

さらに信じた人に裏切られたときのスタンスもこの映画に感情移入できるかの大きなカギを握る。

例えば、僕は信じている人に裏切られたとき、一気に冷めてしまう。多少の悲しみはあるが、裏切られた瞬間に、その事象を自分とは別個のものとして切り離して考える。

「あ、そういうことする人なんだ。おっけー」

これで終わりである。

 

信じるという行為をしたのは自分だし、裏切られたのならそれは自分の責任だと考える。信じるという行為において、相手の行動を全く期待しない。

信じるという行為は自分の行為であって、それをすることにより相手の思考・行動が「こうあるべきだ」といった固定的な考え方にはならないタイプの人間である。

だからこそ裏切られることに対しての恐怖があまりないし、疑うということをしないのだ。

 

その一方、信じるという行為と「あるべき」相手像がセットになる人にとっては、裏切るという行為は「信じてたのに、「あるべき」像から離れたあなた」といった思考になる。そして、それはその人にとって恐怖なのだ。

だからこそ、疑ってしまう。信じたいのに疑ってしまう。

過去に信じて裏切られた悲しみが心に染み付き、信じている人とのコミュニケーションから得る情報の中に疑いの種が少しでも見えれば、疑ってしまうのだ。

これはいい悪いではない。信じることに対するスタンスなのだ。

「怒り」は純粋な女性のための映画である

 

今なら泣いていたあの子の理由がわかる。

あの子はとてもコミュニケーション能力が高く、目の前の人から様々な情報を受けとることができる。女社会にいたからこそ、人の裏表を知っているし、自身が裏切られた経験もたくさんしているんだろう。

信じることと疑うことが共存してしまう。それでも人を信じたい。信じたいけど、疑ってしまう自分がいる。なんで疑ってしまうんだろう?とても苦しい。でもやっぱり人を信じたい。

でも、信じきれなかった自分がそこにはいた。そして、信じようとした相手は純白だった。

信じきれなかった自分・疑ってしまった自分に対しての怒り・悲しさ・悲哀、、、それがあの映画のラストにつながり涙をながすのだろう。

 

そういった意味で、あの映画で涙を流す女性はとても心が綺麗な女性だと思う。

「あなたはとても心が綺麗で、人を信じたい純粋な気持ちを持った女性なんだね」